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京都の町も一望できる桜と紅葉の名所「第二十番札所 西山 善峯寺」

●宗派:天台宗単位
●御本尊:千手観世音菩薩
●開基:源算上人
●創建:長元2年(1029年)

《概要》
比叡山の僧・源算(げんさん)が47歳の時、この地に小堂を建て、十一面千手観音菩薩像を刻み本尊としたのが開創と伝えられています。

その後、後一条天皇(ごいちじょうてんのう)から善峯寺の寺号を賜り、国家鎮護の勅願所とされ、建久3年(1192年)、後鳥羽上皇から善峯寺の寺額を賜って寺名が改められました。

歴代天皇らの帰依を受け、往時は50余りの堂宇を有するほどの隆盛を誇りましたが、応仁の乱の兵火で焼失しました。

現在ある堂塔の多くは、江戸時代に徳川五代将軍・綱吉の母・桂昌院(けいしょういん)によって再建されたものになります。

寺は釈迦岳の標高310mのところにあり、山の斜面訳10万㎡にわたって堂塔が点在するために坂が多くなっています。

そのため一巡するだけで四十分程かかるものの、樹木に覆われた約3万坪の境内には西山を背景にして、江戸時代に建てられた諸堂が立ち並んでおり、季節の花々が美しく、時折見渡せる京都市街と東山や比叡山の眺めが疲れを忘れさせてくれます。

急な石段の参道を上っていくと元禄5年(1692年)に再建された山門に着き、その山門は源頼朝が寄進したという阿吽の金剛力士像が立ち、楼上には文殊菩薩像が安置されています。

山門をくぐり、石段を上った先にある本堂(観音堂)は、入母屋造本瓦葺の大屋根が見事で、西国札所であると同時に、洛西三十三ヶ所の第1番札所としても信仰を集めています。

また、本尊の千手観世音菩薩は仁弘(じんこう)法師の作で、脇立ちの千手観世音菩薩が源算上人の作といわれています。

本堂横の石段を上った多宝塔【重要文化財】の前に繁る、全長40数mにも及ぶ「遊龍(ゆうりゅう)の松」【天然記念物】も一見の価値があります。

多宝塔から石段を上ると展望が素晴らしいけいしょう殿があり、石段を上って奥の院薬師堂、阿弥陀堂と一巡できます。

《参詣ガイド》
善峯寺は釈迦岳(しゃかだけ)の支峰・善峰(よしみね)の中腹に立っており、阪急東向日(むこう)駅から1時間に1本程度のバスで西の山に向かいます。

その途中、在原業平(ありわらのなりひら)ゆかりの十輪寺を過ぎて、竹製品、竹炭を販売する店や、タケノコ料理の店が点在する道を25分余り、終点の善峯寺バス停でおります。

赤い一の橋を越えて、急なつづら折の坂道、阿知坂を上っていくと、やがて組物の白い木口が印象的な山門が現れ、堂宇は、ところどころ岩肌が露出する斜面を切り開くようにして立ち並んでいます。

源算上人が、寺を建立する際、山が険しくて困っていたところ、猪の大軍が現れて一夜にして岩場を平地に変えた、という伝説が残るのもうなずける場所となっています。

境内は、手入れの行き届いた回遊式庭園になっており、参道に沿って一巡することが出来、春には桜、続いてツツジ、サツキ、アジサイ、秋には秋明菊、紅葉と続き、花の寺としてもよく知られています。

革聖・行円上人創建で革堂さんこと「第十九番札所 霊雄生麀山 革堂」

●宗派:天台宗
●御本尊:千手観世音菩薩
●開基:行円上人
●創建:寛弘元年(1004年)

《概要》
草創は寛弘元年(1004年)開祖の行円(ぎょうえん)上人が一条小川にあった一条北辺堂を修復し、行願寺と名付けたのに始まると伝えられています。

郷円上人はもと猟師で、射止めた雌シカが子を宿していたのを見て殺生を悔い、仏門に入ったといわれています。

上人は母鹿の皮に千手陀羅尼経を書いて衣とし、修行に励むとともに、苦しむ人たちを助け、仏の道を説いてまわりました。

比叡山の横川(よかわ)で修業したので、横川皮仙(かわひじり)とか革聖人と人々は呼び、革聖の建てた寺は革堂の愛称で呼ばれるようになりました。

行円上人が夢で告げられた加茂社の霊木で彫り上げた八尺の千手観音を本尊とし、一堂に安置したのが寺の起こりになります。

もとは一条油小路にありましたが、天正18年(1590年)、秀吉の寺町造営によって寺町荒神口へ移築され、次いで宝永5年(1708年)の火災の後に、現在の場所に移されました。

寺は民家や商店が軒を連ねる、昔ながらの京都の風情が感じられる場所にあり、長年上京町衆の会堂の役割も果たしてきました。

西面して立つ山門は、幕末の蛤(はまぐり)御門の変で焼け、明治3年(1870年)再建された医薬門になります。

正面の本堂は入母屋造本瓦葺で、千鳥破風の向拝に、檜皮葺の唐破風の軒先を付け、文化12年(1815年)の棟札が残っており、京都市指定文化財となっています。

本堂外陣の格天井には本堂建立に尽力した人々が奉納した171面の花鳥の彫刻が施されています。

須弥壇中央の厨子の中には行円自刻の身の丈8尺(約2m40cm)の十一面千手千眼観音像を安置しており、本尊に向かって右には地蔵菩薩立像、左側の厨子には元三(がんさん)大師を祀っています。

本堂のほかに文化年間の建物としては文化元年(1804年)建立の鐘楼(京都市指定文化財)、文化10年建立の鎮宅霊符神堂、文化12年建立の愛染堂、文化14年建立の庫裏があります。

また宝物館には奉公先の主人に殺された娘を絵馬に描いて奉納したといわれる幽霊絵馬があり、毎年8月22日と23日に公開されています。

都七福神の一つで、境内には寿老人(じゅろうじん)を祀った寿老人堂がたち、初詣や毎月7日の都七福神縁日には長寿延命を願う多くの人が訪れます。

《参詣ガイド》
京都御苑の東側を南北に延びる寺町通と、丸太町(まるたまち)通との交差点から100mほど南の東側に、尼僧の守る観音の寺、革堂が山門を構えています。

バスであれば、河原町丸太町で下りれば徒歩5分ほどで、地下鉄東西線市役所前駅や京阪丸太町駅からも10分弱で到着します。

寺町通は豊臣秀吉の時、市中の寺が集められたところからその名が付き、現在ではお茶や筆墨、紙、古道具、古書などを扱う老舗が多く、落ち着いた佇まいの町並みが続いています。

寺は現在地に移転して300年が経ち、町の中にすっかり溶け込んで、近くに住む人が朝に夕に訪れています。

いけばな発祥で聖徳太子が創建の古刹「第十八番札所 紫雲山 六角堂」

●宗派:天台系単立
●御本尊:如意輪観世音菩薩
●開基:聖徳太子
●創建:用明天皇2年(587年)

《概要》
京に都が開かれるよりも200年余の昔、用明天皇2年(587年)に聖徳太子が四天王寺建立のための用材を求めてこの地を訪れた際に、仏のお告げを夢で見られ、六角の御堂を建てて護持仏を安置されたのが寺の起こりと伝えられています。

この時、太子が沐浴されたと伝えられる池跡のほとりに、小野妹子が始祖の池坊と呼ばれる住坊があり、その池坊の僧侶がご宝前に備えた花が、いけ花の始まりとされています。

寺は賑やかなビジネス街にあり、表門をくぐるとまず目に入るのが本堂に吊るされた赤い大きな提灯と、枝が地面に届くほど伸びた六角柳になり、枝を2本寄せておみくじを結ぶと良縁に恵まれるとも、願い事が叶うともいわれています。

本堂は寛永18年(1641年)御所の建物造営の余材を用いて建てたことが知られていますが、度重なる火災に遭いましたが、その都度再建され、現在の建物は明治10年(1877年)に建てられたものになります。

堂内に祀る5.5cmの本尊は、聖徳太子ゆかりの秘仏で、本尊を大きくした身の丈1.5mほどの同形の金銅御前立(おまえだち)が安置されており、右膝を立て、右手をあてた姿で、ほんの少し右へ顔を傾けています。

宝珠と法輪を持つ如意輪観音は衆生の苦しみを救い、願い事をすべて叶えると信じられてきました。

本堂前の敷石にある六角形の石は、かつてここが京都の中心地だったことから「へそ石」と呼ばれています。

平安遷都の折り、寺が道路の中央にあったため、桓武天皇の勅使が本尊に移動を願ったところ、六角堂が礎石(へそ石)ひとつを残して、自ら15mばかり北へ退いたという逸話が残っています。

また、親鸞上人が建仁元年(1201年)、六角堂に百日参籠し、95日目に夢で如意輪観音より「法然の許へ行け」とのお告げを得たことが、浄土真宗を生み出す契機となったといわれており、境内には上人の姿を刻んだ夢想之像と、草鞋の御影像を安置した親鸞動画たっています。

江戸時代には東西41間半、南北49間半の規模があり、愛染院、多門院、不動院、住心院などの塔頭があったが、分離独立したり、廃絶したりして今は本寺のみとなっています。

《参詣ガイド》
京都駅正面から北へ延びる烏丸(からすま)通の四条交差点からも、御池通との交差点からも3筋目に当たる六角通を東に入ってすぐのところに、通りの名の起こりとなった六角堂こと頂法寺があります。

南面して立つ山門をくぐると、唐破風の礼堂に「観世音菩薩」と墨書した赤い大提灯が吊るされ、前には邪鬼が支える香炉から紫煙が立ち上っています。

その奥の屋根に宝珠が輝く六角の造りの本堂には、洛陽三十三観音巡りの筆頭にも挙げられる如意輪観音像を祀っています。

ビルが林立する最も現代的な光景の中に、巡礼の鈴の音と御詠歌が流れる境内には、変わるものと変わらないものの対比が印象深いです。

空也上人立像等 木造仏像の宝庫「第十七番札所 補陀洛山 六波羅蜜寺」

●宗派:真言宗智山派
●御本尊:十一面観世音菩薩
●開基:空也上人
●創建:天暦5年(951年)

《概要》
開基の空也(くうや)上人は病人や貧者を助け、橋を架けたり井戸を掘ったりするなど、常に市民の中にあって念仏をすすめたことから、「市の聖」と呼ばれ敬われましたが、その空也上人が応和3年(963年)に建立した西光寺がこの寺の始まりといわれています。

天暦5年(951年)、京都に流行した疫病の退散を祈って自ら観音像を刻み、仏像を車に安置して市中を曳き回り、「皇服茶(おうぶくちゃ)」を病者に」授けて、病魔を鎮めたといわれています。

その尊像を、一堂を建てて安置したのが寺の起こりで、寺はその後天台別院として栄え、源平時代には平家一族の邸宅が立ち並んだが、平家没落後に本堂のみを残して焼失しました。

後に、源頼朝、足利義詮(あしかがよしあきら)に修復されたものの、応仁の乱でも焼失し、さらに豊臣秀吉と徳川家によって修復されました。

寺はあの世とこの世の交差点にある六道の辻を西にはいた住宅地にあり、注目すべきは15体の国宝・重要文化財指定の仏像など、主に平安、鎌倉期の名宝を有することと、正月の皇服茶授与や8月8~10日の間、夜を徹して行われる萬燈会、12月13~31日の空也踏躍念仏など、長い間受け継がれてきた行事の数々になります。

また門からすぐのところにたつ本堂【重要文化財】は貞治2年(1363年)の再建で、上人が刻んだ十一面観音像【国宝】を安置しています。

本堂では、生年月日と性別で一年の運勢を占う「四柱推命おみくじ」(300円)も授かることが出来ます。

本堂横には平清盛の供養塔、平景清を護った白拍子の阿古屋塚が並び立ち、宝物館には念仏を唱える口から六体の阿弥陀が現れたという伝承を表した空也上人立像【重要文化財】、平清盛坐像【重要文化財】、運慶(うんけい)・湛慶(たんけい)の親子の坐像など平安・鎌倉期の木造彫刻の名宝が数多く並んでいます。

《参詣ガイド》
市中からは、鴨川を松原橋で東へ渡り、第16番札所の清水寺に向かう途中にあり、巡礼の順番からいくと、清水寺から清水坂を下り東大路通を越えて松原通に入ります。

お盆の精霊迎えの鐘で名高い六道珍皇寺(ろくどうちんのうじ)門前のやや西が六道の辻となり、謡曲「熊野(ゆや)」でシテの熊野が通った道で、「げに恐ろしやこの道は、冥途(めいど)に通ふなるものを・・・」と語られています。

平安の昔から、葬送の地であった鳥辺野の入口に当たるこの辻のすぐ南に、六波羅蜜寺はあります。

京阪電車五条駅を東へ出て、大和大路の次の道を左(北)へ進む方法もありますが、今は4民家が立て込んでおり、平清盛をはじめ弟の教盛(のりもり)や異母弟の頼盛(よりもり)ら平家一門の邸宅が並んだ夢の跡地をたどる道でもあります。

東面して立つ門が入り口で、寺の東側の道も、六原小学校の校地も明治初期までは寺の境内でした。

昔は南と北にも寺の門があったが、南門跡が裏門通りの名を残すだけとなっています。

京都を代表する観光名所で世界遺産の「第十六番札所 音羽山 清水寺」

●宗派:北法相宗
●御本尊:十一面千手千眼世音菩薩
●開基:延鎮上人
●創建:宝亀9年(778年)

《概要》
日本はもとより世界各国から観光客が訪れる清水寺は、音羽山の中腹、13万㎡にも及ぶ境内に多くの堂塔が並び立っています。

遠くは大阪まで見渡すことが出来る絶景の地にあり、四季折々の自然景観にも恵まれ、春の桜、秋の紅葉の眺めは一幅の絵巻物のように素晴らしいものがあります。

清水寺の開創にまつわる縁起ですが、奈良時代の末期に大和の僧・延鎮上人が霊夢に導かれて音羽山中の金色に流れる水の源にたどり着き行叡居士に出会いました。

行叡居士は観音の化身で、「この草庵のところに堂を建て、そばの霊木に観世千手観音を刻んで祀るように」と言いおいて消えてしったのがそのおこりといわれています。

歳月が流れ、やがてのちに征夷大将軍となる坂上田村麻呂が、妻の安産のために鹿狩りをしていたところ、不思議な水の流れを辿って延鎮上人に出会い、殺生の罪深さを諭されました。

田村麻呂は妻と共に観世音に帰依し、崖を崩しそして谷を埋めて寺院を寄進し、金色八尺の千手観音像を本尊としたそうです。

田村将軍は東北遠征の成功は観音に変化した毘沙門天と地蔵菩薩の加護によるものと感謝し、毘沙門天像と地蔵菩薩像を作り、脇侍としました。

清水寺は建立以来、桓武天皇の勅願寺、また嵯峨天皇の時には鎮護国家の道場となったこともあり、さらには観音信仰も手伝って参籠する人達が多く集まって、その様子を紫式部や清少納言、菅原孝標女などの作品にも書かれています。

そんな清水寺へは、約1kmにわたって土産物屋が並ぶにぎやかな清水坂を上り、朱塗りの仁王門(重要文化財)を過ぎ、西門、三重塔、鐘楼、田村堂を経て国宝である本堂に着きます。

檜皮葺の本堂は、徳川家光の寄進によって寛永10年(1633年)に再建され、崖の上にせり出した高さ13mの清水の舞台で知られています。

また本堂の東側にはそれぞれ重要文化財となる釈迦堂や阿弥陀堂、奥の院が崖に面して立ち並び、本堂の石段を下りた先に清水寺の由来となる霊水・音羽の滝に出てきます。

さらに奥の院の前を南に少しのところにある子安堂(重要文化財)から望むことが出来る清水の舞台の眺望も素晴らしいものです。

《参詣ガイド》
ユネスコの世界遺産に登録された清水寺は、観音霊場の信仰に加えて、数多くの文化財と景観に恵まれています。

古くからある表参道は、東大路通のバス停清水道から清水寺を上る道になり、その南側には五条坂から茶碗坂を上る道もあります。

また円山公園から高台寺下の「ねねの道」を通って、二年坂、三年坂をたどるコースも人気が高く、この道沿いには江戸時代の建物も残っており、重要伝統的建造物群保存地区を通っています。

さらに清閑寺から歌の中山を抜けて子安堂に出る道は、清閑寺までの足の便が悪いこともあり、時折山歩きの人に出会う程度の静かな道になります。

頭の観音さん、熊野詣の聖地の「第十五番札所 新那智山 今熊野観音寺」

●宗派:真言宗泉涌寺派
●御本尊:十一面観世音菩薩
●開基:弘法大師
●創建:天長年間(824~834年)

《概要》
今熊野観音寺は泉涌寺(せんにゅうじ)の塔頭で、寺伝によると弘法大師が熊野権現のお告げで一堂を建立され、自ら刻んだ一尺八寸の十一面観音像に、授かった一尺八寸の像を体内仏として納め安置したのが起こりだといわれています。

平安時代に時の左大臣・藤原緒嗣(ふじわらのおつぐ)の発願によって自域が広げられ、斉衡(さいこう)2年(855年)、子の春津(はるつ)の時代に伽藍が完成しました。

その後、熊野権現を篤く信仰する後白河法皇が、この地に熊野那智権現を勧進して山号を新那智山と定めると、この頃から盛んになった熊野詣に合わせて、寺運大きく栄えました。

かつての観音寺の奥の院巡礼堂の位置に立ち、正徳2年(1712年)に建立された本堂は、大師と熊野権現の出会いの場所と伝えられており、本尊の十一面観音は後白河法皇の頭痛を平癒したことから「頭の観音様」と呼ばれ、頭痛やぼけ封じ、知恵授けに霊験があるといわれています。

東山山麓の自然に包まれて広がる境内には地蔵堂、大師堂、医界に貢献した人々を祀る多宝塔形式の医聖堂、熊野権現を祀る社などの諸堂が立ち並び、中でも大師堂は弘法大師像の見守る中、護摩の修法を行うところで、不動明王、愛染明王とともに、藤原緒嗣像を祀っています。

また本堂の向かいと鐘楼の近くには、弘法大師が錫杖で岩根を叩くと湧きだしたという霊泉「五智水」が今も残り、さらに本堂背後の墓地には、藤原三大の墓と呼ばれる石造宝塔三基が建っています。

参拝後は泉涌寺に回り、宋の法式に則って建てられた仏殿や、天皇や皇妃が月輪陵を参拝したときに使われた御座所を訪ねてみるのも良いでしょう。

そこには唐の玄宗(げんそう)皇帝が楊貴妃の死を悼んで作らせたという楊貴妃観音像も祀られています。

《参詣ガイド》
東大路通の泉涌寺道バス停すぐの交差点から東へ、月輪山の麓に向かって参道を上りますが、この道は泉涌寺への参道として今は泉涌寺道と呼ばれています。

ただ、泉涌寺は皇室の菩提寺として長く一般の人の参拝が出来なかったため、もっぱら観音寺への参道として観音寺大路と呼ばれてきており、バス停の西方、一の橋川に架かる大路橋の名は、観音寺大路に架かる橋に由来します。

即成院(そくじょういん)、戒光寺(かいこうじ)など、泉涌寺塔頭の前を通り、案内に従って左に折れると、赤い鳥居橋を渡って観音寺に着きますが、寺の参道から境内一帯は、特に、紅葉に染まる頃が美しいです。

また、泉涌寺道のバス停の北方、次の信号から滑り石(すべりいし)街道を東に入り、トビウオの絵馬や子供の守り神として知られる剣(つるぎ)神社門前から南へ、東山周遊トレイルコースに入って、寺の鳥居橋の下に出る道もあります。

昔はホトトギスの声を聞く名所として歌にも詠まれましたが、現在では人家が立ち並び、一条天皇中宮定子の鳥戸野陵の下あたりが野趣の残る道となっています。

多くの伽藍が立ち並んだ不死鳥の寺「第十四番札所 長等山 三井寺」

●宗派:天台寺門宗(総本山)
●御本尊:如意輪観世音菩薩
●開基:大友与多王
●創建:朱鳥元年(686年)

《概要》
三井寺は正式には園城寺といい、天台寺門宗の総本山で、飛鳥時代・天武天皇15年(686年)に壬申の乱に敗れた大友王子の皇子の大友与多王(よたのおおきみ)が父の霊を弔うために寺を創建し、天武天皇から「園城」という勅願を賜ったことが園城寺の始まりと伝わっています。

貞観年間(859~877年)になって、密唐から帰朝して密教の真髄を伝えた智証大師円珍(ちしょうだいしえんちん)が園城寺を天台別院として中興し、三井寺は東大寺・興福寺・延暦寺とともに本朝四箇大寺の一つに数えられるほどの隆盛を極めました。

境内には天智・天武・持統天皇の三帝の産湯に用いられた霊泉があったことから「御井の寺」と呼ばれ、この霊泉を円珍が三部潅頂(さんぶかんじょう)の法儀に用いたことから三井寺と呼ばれるようになったといわれています。

比叡山延暦寺との長期にわたる紛争や、再三の兵火にあい、幾度も諸堂を焼失しましたが、その度に復興を遂げました。

広大な境内には北政所(きたのまんどころ)によって再建された国宝の金堂をはじめ、霊泉の湧く閼伽井屋(あかいや)【重要文化財】、室町時代に造られた三重塔(重要文化財)、近江八景の「三井の晩鐘」で有名な鐘楼【重要文化財】などが立ち並び、国宝・重要文化財など100余点にも及ぶ貴重な寺宝が数多く残っています。

札所の観音堂は、石段を上った境内南の高台にあり、堂は元禄2年(1689年)の再建で、本尊の如意輪観世音菩薩【重要文化財】は三十三年毎に開扉される秘仏です。

前の広場からさらに石段を上ると眺望台があり、琵琶湖や比良山系の景色を楽しむことが出来ます。

《参詣ガイド》
京阪三井寺駅を降りると、西方の山の斜面に銀色の甍が点在しているのが見えますが、それが三井寺の堂宇や塔頭で、札所の観音堂は境内のほぼ南端に位置しています。

まず観音堂を拝観するか、金堂などから先に廻るかによって道順が異なりますが、さきに観音堂へお参りするなら、山に向かって琵琶湖疎水沿いにまっすぐ行き、左へ大きく道なりにカーブすると右手(長等神社手前)に観音堂への階段入り口があります。

逆に金堂などの諸堂を先にするのであれば正門である仁王門を目指しますが、疎水沿いの道の最初の信号が「北国橋」で、その橋を右に渡って直進、次の交差点を左折すると300mほど先に仁王門が見えてきます。

仁王門の右方に食堂(じきどう)、正面に金堂、金堂の左手前に鐘楼、裏手に閼伽井屋、裏手から少し離れて霊鐘堂《慶の引摺鐘(ひきづりがね)》、さらに一切経蔵(いっさいきょうぞう)、唐院などが立ち、静謐な佇まいとなっています。

唐院から順路に従って村雲橋を渡り、道なりに南へ進み、妙堂《湖国十一面観音第一札所》を過ぎ、毘沙門堂まで来ると、札所の観音堂へと至る階段があります。

花の寺で知られ紫式部も参籠した名刹「第十三番札所 石光山 石山寺」

●宗派:東寺真言宗
●御本尊:如意輪観世音菩薩
●開基:良弁僧正
●創建:天平勝宝元年(749年)

《概要》
天平19年(747年)聖武天皇の勅願により良弁(ろうべん)僧正が開創したと伝えられており、石山寺縁起絵巻によると、東大寺大仏造立に際し、黄金がないことを憂いた聖武天皇の命で金峯山(きんぶさん)に籠った良弁僧正は、瀬田の霊山に行けとの蔵王権現の夢告を受けました。

良弁僧正は瀬田で出会った比良明神の化身の老人に教えられて、」石山に庵を結び如意輪観音を祀ると、陸奥の地で金脈が発見されたため、この時祀った像を安置した岩から離れなくなったので、一時を興したと伝えられています。

また、壬申の乱で敗れた大友皇子(弘文天皇)の霊を祀るべく建立された小寺が起源とも伝えられており、従来疑問視されていましたが、平成3年に白鳳期の瓦が出土し、開創が7世紀に遡る可能性が強まっています。

そんな石山寺は、観音の霊地とされ、平安時代になって観音信仰が盛んになると、歴代の天皇や貴族の崇敬を集めました。

紫式部が源氏物語の構想を得たのも石山寺とされ、和泉式部日記や蜻蛉日記など多くの王朝文学にも記されており、その広大な境内は年間を通じて様々な季節の花に彩られ、特に梅や桜、花菖蒲、紅葉は見事な眺めになります。

さらに源頼朝の寄進により建てられ、左右に運慶・湛慶作の仁王像を配した東大門【重要文化財】をくぐって参道を進み、石段を上ると目に入るのが天然記念物の巨大な珪灰石(けいかいせき)の岩盤とその上に建つ優美な多宝塔【国宝】の姿です。

塔は東大門と同じく源頼朝の寄進で健久5年(1194年)に建てられ、二重塔としては日本最古の多宝塔といわれています。

多宝塔を見上げながら階段を上がると、本堂【国宝】に着きますが、本堂の内陣は平安時代中期に再建されたもので、外陣礼堂は慶長7年(1602年)に淀君の寄進により増築されたといわれ、本尊と同じ岩盤の上に立っています。

あと、本堂内には紫式部が源氏物語を執筆した「源氏の間」が残されており、そこには紫式部の人形が置かれ、「源氏物語」執筆当時を再現しています。

瀬田川を見下ろす高台には、近江八景「石山の秋月」のシンボル月見亭がたち、隣には松尾芭蕉がたびたび仮住まいしたという芭蕉庵もあります。

《参詣ガイド》
京阪石山坂本線の終点、石山寺駅を降りると、目の前に満々と水を湛える瀬田川があり、その駅前から門前を通るバスの便もありますが、わずかな距離なので瀬田川を見ながら歩いていくのも良き10分ほど南下すると石山寺門前に着きます。

東大門をくぐった参道両側には、塔頭の白壁を背に樹齢200年を超すツツジやサルスベリの並木が季節に彩を添え、受付を入ってすぐの右手に「大理石のくぐり石」があり、天平の昔から胎内潜りの奇岩として知られています。

その先、右手に見えるのが本堂へと至る石段となり、石段の先にあるごつごつした珪灰石の塊が印象的といわれています。

雷除けとぼけ封じで知られ庶民信仰の寺「第十二番札所 岩間山 岩間寺」 

●宗派:真言宗
●御本尊:千手観世音菩薩
●開基:泰澄大師
●創建:養老6年(722年)

《概要》
寺伝によると、岩間寺の開山、泰澄(たいちょう)大師は白山麓で修業中、妙理大菩薩という姫神に導かれて山に登り、山頂の池の前で祈りをこめると、九頭竜王が出現し、龍王の本来の姿、十一面観音を感得したと伝えられています。

養老6年(722年)に元正(げんしょう)天皇の病を法力により治した功により、元正天皇の帰依を受け、勅願によって岩間寺を行脚中、山内にあった桂の木で泰澄大師自ら千手観音を刻み、元正天皇の御念持仏をその胎内に納め本尊とし、岩間寺を創建しました。

また泰澄大師がたびたび落ちる雷に困り、法力で雷を封じ込めて戒め、岩間寺の参拝者には、雷の災いを及ぼさないことを約束させたことから雷除け観音としても信仰されています。

この時、雷が爪で掘った「雷神爪掘湧泉(らいじんつまぼりゆうせん)」は不老長寿の水と呼ばれ、ぼけ封じにもご利益があるといわれています。

寺は標高443mの岩間寺の山頂近くにあり、灯籠の並んだ参道を進むと、ぼけ封じ観音像と仏足石、さらに進むと手前に大師堂、正面に天正5年(1577年)に建立された本堂は深い木立を背にして境内の奥にあります。

泰澄大師が桂の木で造立したという等身大の千手観音像は失われましたが、元正天皇の念持仏と伝えられる14.5cmの秘仏・千手観音立像を本尊として安置されています。

その本尊は毎夜厨子を抜け出て地獄を駆け巡り、苦しむ人びとを救い、戻られた時には汗びっしょりになられていたという伝説から、汗かき観音さんと呼ばれており、また両脇侍として桂の木で泰澄大師が刻んだという吉祥天像と婆蘇仙人像が祀られています。

さらに本堂に向かって右手には平安後期の木造不動明王像及び矜羯羅(こんがら)童子像、制託迦(せいたか)童子像を安置している不動堂が建っています。

あと、本堂に向かって左手前の大師堂は、昭和60年の再建で、宝形造檜皮葺で開祖の泰澄大師と宗祖の弘法大師を祀っています。

余談ですが、松尾芭蕉は岩間寺に参籠して霊験を得、その俳諧を確立したといわれており、本堂横手には「古池や蛙とびこむ水のおと」を読んだと伝えられる池が残っています。

境内には、日本随一といわれるカツラの大樹や銀杏の大樹があり、自然も豊かな環境になります。

《参詣ガイド》
標高443mにある岩間寺の正式名は正法寺で、縁日の毎月17日のみJR石山寺(京阪石山駅も隣接)から直通バスが出ています。

直通バスの無い日は、南郷中学校経由新浜行きの京阪バスを利用し、中千町(なかせんまち)で下車します。

そこから進行方向右手の道に入り、京滋バイパスを横切ると、寺への案内に従って上っていきますが、途中から山あいの道となり、奥宮神社の鳥居を右手に見て、カーブの続く舗装道をひたすら歩くこと50分ほどで寺の駐車場に着きます。

ここから寺までは約200mで、階段もなくほとんど平坦な道になります。

太閤最後の醍醐の花見で知られる「第十一番札所 深雪山 醍醐寺」

●宗派:真言宗醍醐派(総本山)
●御本尊:准胝観世音菩薩
●開基:聖宝理源大師
●創建:貞観16年(874年)

《概要》
醍醐寺は豊臣秀吉が慶長3年4(1598年)の春に行った醍醐の花見で知られる京都屈指の桜の名所になります。

修験道における中興の祖・聖宝理源(しょうぼうりげん)大師が上醍醐山上に小堂宇を建立して、准胝、如意輪の両観音像を安置したのが起こりといわれます。

尚、醍醐寺の名は聖宝が真言布教の霊地を求めてこの地を訪れた所、翁が現れ湧き水をすくい飲み、「ああ、醍醐味かな」と言って、姿を消したという故事により、その翁は当山の横尾明神であったといわれています。

その後醍醐・朱雀・村上三帝をはじめ皇室貴族の保護を受けて大伽藍が築かれましたが、応仁の乱で多くの堂を焼失されたものの、豊臣秀吉により復興され、現在でも醍醐山(笠取山)の麓から山上まで80余の堂塔伽藍が立ち並んでいます。

仁王門をくぐり、国宝の金堂と五重塔を見ながら女人堂を経て、そこから西国札所のある上醍醐の准胝堂までは約3kmの山道を進みます。

丁石の案内に従って杉木立の参道を上ると、五丁に秀吉の醍醐花見の場で、十六丁の峠まではきつい上りで、社務所の手前が十九丁となります。

参道を奥へ進むと室町時代に建てられた寝殿造風の典雅な建物である清瀧宮と拝殿、そばに醍醐寺の起源となった醍醐水が湧き、現在も霊水を飲むことが出来ます。

石段を登ったところに醍醐寺創建に関わる建物である西国札所の准胝堂があったが、平成20年の落雷によって焼失し、現在復興が待たれています。

さらに登ると醍醐天皇の御願で建てられた薬師堂及び五大堂、最高地点の崖上に張り出す舞台造の如意輪堂、その隣の開山堂(御影堂)と続いていきます。

《参詣ガイド》
京都の南東、笠取山(かさとりやま)《醍醐山》の山上、山下に広がる醍醐寺は地下鉄・醍醐寺駅から歩いて約10分、コミュニティバスを使えば4分の場所になります。

もしくは、山科駅と京阪六地蔵駅を結んで旧奈良街道を走る京阪バスを醍醐三宝院で降りれば、寺の総門は目の前にあります。

しかし、札所の上醍醐准胝堂までは西国33ケ所中、観音正寺と並ぶ難所と覚悟しなければなりません。

総門から春には桜に包まれる桜馬場を通り、下醍醐の伽藍の間を抜けて上醍醐登山口に出るか、または仁王門の手前から光台院横の道を登り准胝堂へ向かいます。

上醍醐登山口には、准胝堂本尊の分身を祀る女人堂があり、准胝観音は子授けや安産、夫婦和合の信仰が篤いにもかかわらず、修験道の聖地である上醍醐は女人禁制の時代が長かったといわれており、現在はここで杖を借り、約2.5kmの山道を登ります。

およそ一丁毎に置かれた凡字を刻んだ町石卒塔婆37本が頂上まで続いており、その途中の不動の滝からはかなりな急坂となり、寺の草創にまつわる醍醐水横の石段を上ると准胝堂の前に出ます。

そこから薬師堂、五大寺を経て、開山堂まではさらに10分余り歩かなければなりません。