庭園と20有余の堂塔伽藍が壮観な「第三番札所 風猛山 粉河寺」

●宗派:粉河観音宗(総本山)
●御本尊:千手千眼観世音菩薩
●開基:大伴孔子古
●創建:宝亀元年(770年)

《概要》
創建は宝亀元年(770年)と伝えられており、国宝に指定されている「粉河寺縁起絵巻」によると、寺の起こりは猟師である大伴孔子古(おおとものくじこ)が光明を発する霊地を見つけて、その場所に庵を結んだことに始まるといわれています。

ある日この庵に一夜の宿を乞うた童男行者が、そのお礼として庵に七日七晩籠って、金色の千手観音像を刻んで立ち去っていきました。

その後、長く病気を患っていた河内の国の長者・左太夫の一人娘のもとへ童男行者が訪ねて来て、千手陀羅尼を称えて祈祷すると娘の容態は回復しました。

童男行者は左太夫の申し出たお礼を固辞し、娘からさげさや(お箸箱)と袴だけを受け取って姿を消してしまいました。

翌春、左太夫は童男行者の言い残した「粉河」の語を頼りに、あちこち探した末、米のとぎ汁のような白い川を見つけ、その川を遡り、やっとの思いで草庵を見つけ出しました。

扉を開けてみると、娘が差し出したさげさやと袴を持った千手観音が安置されていたことから童男行者が千手観音の化身であったことを知って、篤く尊崇したと伝えられています。

それ以来、「生身観音」の信仰を生んで、多くの人々に信仰され、平安時代には多いに寺勢を盛んにし、「枕草子」にもその名前が書き留められています。

さらに鎌倉時代には4km四方を超える境内に七堂伽藍、550坊が立ち並び、寺領4万石を有して隆盛を極めましたが、豊臣秀吉による焼き討ちのため全山を焼失してしまい、現在の諸堂は江戸時代に再建されたものになります。

どっしりと構えた粉河寺の大門【重要文化財】をくぐると粉河川の流れに沿うように童男堂などの諸堂が立ち並んでいます。

さらに紀州藩十一代目藩主・治宝候の直筆となる「風猛山」の扁額が揚げられた中門【重要文化財)】を潜ると、桃山時代の枯山水の庭園で石組みとサツキやソテツを配した粉河寺庭園【国指定名勝】に出ます。

その奥に建つ本堂【重要文化財】は西国三十三ヶ所の中でも最大級のもので、本堂の左手にある千手堂【重要文化財】には千手観世音菩薩、そして脇壇には紀州歴代藩主にゆかりのある人々の位牌が祀られています。

《参詣ガイド》
JR阪和線和歌山駅、あるいは南海高野線橋本駅から紀ノ川沿いにのんびりと走るJR和歌山線で最寄りの粉河駅へ。

粉河駅からは広い道がまっすぐ北に延び、粉河寺大門に向かっており、わずかに大門周辺を除き、近年はかつての門前町の面影は薄れています。

その途中、振り返ると駅の後方には紀州富士の名前を持つ標高757mの龍門山が、優美にそびえたっています。

中津川を渡り、大門をくぐって本坊の御池坊で右に曲がり、童男堂、観音出現池、太子堂などを過ぎると、右側の細い流れが寺伝に語られる「粉河」といわれています。

さらに、中門を越えたところで参道は左に折れて、その正面に庭園と壮大な本堂があります。