山々の深い緑に包まれ花と紅葉も見事な「第十番札所 明星山 三室戸寺」

●宗派:本山修験宗
●御本尊:千手観世音菩薩
●開基:行表和尚
●創建:宝亀元年(770年)

《概要》
寺伝によると三室戸寺は宝亀元年(770年)、光仁天皇が宮中に毎夜金色の霊光が差し込むのをご覧になり、天皇は藤原犬養(いぬかい)に霊光の源を調べさせたところ、宇治川支流の志津川上流の岩淵というところで観音が出現しました。

感激した犬養が滝壺に飛び込むと、目の前に流れてきた蓮弁が一尺二寸の二臂の観音に化すという不思議な体験をしたため、戻って天皇に奏上したところ、天皇は岩淵の地にこの観音像を祀る堂を建立することを命じられました。

桓武天皇の時、2丈の千手観音像を造立し、二臂の観音像を胎内に納めたといわれ、これが三室戸寺の始まりで、「みむろ」とは、神霊の鎮まる神聖な場所を指す語、「と」は入り口の意味であろうと寺ではみています。

平安後期には多くの伽藍が立ち並び、大寺として栄えましたが、度々の火災で衰退し、文明年間(1469~1486年)後土御門天皇が寺を現在の地に移して再興を果たしましたが、織田信長の焼き討ちに遭って焼失しました。

参道を進んで、山門をくぐると、右手に四季折々の花で彩られる5000坪もの庭園が見渡せるこのお寺は花の寺で知られており、中でもアジサイ1万株の美しさは格別なものがあります。

また春には2万株ものツツジ、1千株のシャクナゲが山の斜面を埋め尽くし、さらに石段を登った本堂前は、250もの鉢を並べたハス園で、花の時期にはさながら極楽浄土を思い起こさせます。

尚、本堂は江戸後期の文化11年(1814年)の再建とされ、本堂前には口中の石の玉を撫でると勝ち運がつくといわれる宝勝牛も鎮座しています。

本殿の背後に建つ十八神社社殿は室町時代のもので、国の重要文化財であり、毎月17日に公開される宝物館には、藤原時代の仏像【重要文化財】が安置されています。

《参詣ガイド》
三室戸寺のある宇治市は、京の南の出入口に位置しており、京と大和、近江と大和を結ぶ道が、南北に通っています。

京へ攻め上るもの、大和へ落ち延びるもの達が踏みしめた道を、巡礼者の人々もまた踏みしめてきました。

~~~~~~~~
旅にお金は絶対必要!お金がないときどうするの?
大手消費者金融のカードを持っておくと全国どこでも利用できるから便利!
↓↓↓
SMBCモビットなら平日以外でも対応可能
~~~~~~~~

現在、寺への最寄り駅は、京阪宇治線の三室戸駅となり、駅から東へ、春には桜堤となる小川に添って進んでいきます。

JR奈良線を越えるとすぐに府道京都宇治線との交差点に出ますので、三室戸寺への大きな道標に従って、交差点を東へ渡りゆるやかな坂道を上ります。

その途中に道が2つに分かれるところで左の道に入ると、あとは一直線に門前へと導かれます。

またJR奈良線宇治駅からは、宇治橋を渡って北へ徒歩20分ほど直進し、京阪三室戸駅からの道と合流するところで右折してください。

宇治橋から源氏物語ミュージアム西側の道を通って「源氏物語」宇治十帖の古蹟「蜻蛉(かげろう)の碑の前を経て、京阪三室戸駅からの道に入るコースもあるが、住宅地の中を抜けるので少々わかりにくい。

むしろ三室戸寺を参拝後の帰り道とした方が、道案内を見つけやすいでしょう。

西国霊場唯一本尊に不空羂索観音を祀る「第九番札所 興福寺 南円堂」

●宗派:法相宗大本山
●御本尊:不空羂索観世音菩薩
●開基:藤原冬嗣
●創建:弘仁4年(813年)

《概要》
興福寺は世界遺産「古都奈良の文化財」のひとつで、天智8年(669年)に藤原氏の祖である藤原鎌足の妻・鏡女王(かがみのおおきみ)が夫の病気平癒を祈願して京都山科に建立した山階寺(やましなでら)が起こりになります。

のちに飛鳥に移転し厩坂寺(うまやさかでら)に改められ、さらに和銅3年(710年)の平城遷都に伴い現在の地に移って興福寺と改称されました。

藤原氏の氏寺として、藤原氏の勢力伸長につれて自域を拡大し、平安時代には京都の延暦寺とともに南都北稜と並び称され、鎌倉時代から室町時代には、大和一国を支配するほどの権勢をふるいました。

興福寺五重塔【国宝】を水面に写る猿沢池をまわり、石段を上がって五重塔を背に進むと西国霊場の南円堂【重要文化財】に至ります。

平成8年春に大修理を終えた朱塗りの色が鮮やかな南円堂は興福寺に立ち並ぶ伽藍の中の一堂で、弘仁4年(813年)に藤原冬嗣が父・内麻呂の追善の願いを込めて、父が発願した不空羂索(ふくうけんさく)観音菩提を祀ったのが始まりといわれています。

藤原氏の中でも力があった摂関家北家の祖ゆかりとあって、興福寺の中でも特別な存在で、金色に輝く宝珠を頂く八角円堂は、四代目で寛政元年(1789年)に再建されたものです。

またご本尊である不空羂索観世音菩薩座像【国宝】は三目八臂(はっぴ)、像高336cmの堂々とした巨像で、文治4年(1188年)から翌年にかけて、運慶の父・康慶(こうけい)とその一門が造ったと伝えられ、この像は秘仏ですが、10月17日の大般若経転読会の時に特別に開扉されています。

南円堂の傍には一言だけのお願いをすると、それが叶えられるといわれる「一言観音」を祀る小堂が建っています。

また、南円堂と対をなす北円堂は、藤原不比等追善のため養老5年(721年)に創建され、南円堂が出来るまでは単に円堂と呼ばれていたといわれており、さらに五重塔【国宝】と東金堂【国宝】はともに室町時代に再建されたものになります。

あと興福寺国宝館では有名な阿修羅像をはじめ、国宝・重要文化財に指定されている仏像や仏画などの寺宝が拝観できます。

興福寺一帯は、奈良公園として整備されており、世界遺産にも登録されている春日大社や東大寺など、見どころが多く揃っています。

《参詣ガイド》
興福寺は近鉄奈良駅から近く、東側の改札を出てエスカレーターで地上へ出て、行基菩薩像の立つ噴水から緩やかな上り坂の大通りを進むとすぐに右手の木立の間に伽藍が見え隠れします。

ただ、出来る事なら駅から右に折れて東向商店街を抜け、猿沢池の畔を巡ってから境内に入るのがお勧めですが、これは寺の南であるこちらが、本来の正面に当たるからです。

采女神社近くの石段を上ったところに立つ、香煙たなびく朱塗りのお堂が目指す札所の南円堂になります。

貴族も詣でた舞台造りの本堂も見事な花の寺「第八番札所 豊山 長谷寺」

●宗派:真言宗豊山派(総本山)
●御本尊:十一面観世音菩薩
●開基:得道上人
●創建:朱鳥元年(686年)

《概要》
初瀬山に堂宇を連ねる長谷寺は、全国に末寺三千余ケ寺といわれる真言宗豊山派の総本山で、寺は別名「花の御寺」といわれており、春に見ごろとなる有名なボタンをはじめ、しだれ桜、アジサイ、紅葉、寒ボタン・冬ボタンなど四季折々の花を楽しむことが出来ます。

寺の創建は朱鳥(あかみどり)元年(686年)、飛鳥・川原寺の僧・道明上人が天武天皇の病気平癒を祈願して、銅板法華説相図(ほっけせっそうず)《千仏多宝仏塔》を西の丘(現在の五重塔付近)に安置したのが起こりといわれており、これを元長谷寺と呼んでいます。

のち神亀4年(727年)徳道(とくどう)上人が、聖武天皇の勅願で寺院の建立を発願し、東の岡(現在の本堂付近)に十一面観世音菩薩を祀ったものを、後長谷寺といい、現在の長谷寺の次始まりになったといわれています。

平安時代には官寺に準ずる定額寺に列せられ、また現世利益を祈願する観音信仰の高まりにともなって、都の貴族の間に初瀬詣が大いに流行しました。

土産物屋などが軒を連ねる賑やかな門前町から石段を上ると、後陽成天皇の御宸筆の額を掲げ、明治18年(1885年)に再建され、参詣者を迎えている豪壮な仁王門があります。

門を潜るとすぐにゆるやかに二度折れ曲がって本堂へ続く登廊(のぼりろう)【重要文化財】が延びており、長さ百八間、399段の回廊には長谷型釣灯籠が2間おきに吊るされ趣があり花の季節には両側に植えられた7000株ものボタンが咲き乱れます。

登廊を上り詰めたところには「尾上の鐘」があり、その横に巨大な本堂【国宝】がそびえたち、建物は正堂と礼堂からなって、正堂は正面9間、側面4間、裳階付入母屋造りです。

また礼堂(外陣)は正面9間、側面5間の入母屋造りで、共に本瓦葺き、南側に懸造の舞台を持ち、古建築では東大寺大仏殿、金峯山寺王道に次ぐ大建造物といわれています。

本堂の中に祀られている本尊の木造十一面観世音菩薩立像【重要文化財】は、像高10m余の我が国最大の木造仏です。

その姿は、右手に錫杖、左手に蓮華を挿した水瓶を持って、大盤石に立つ特別な姿で、観音菩薩の徳と慈悲深さを示しているといわれ、参拝者のひたむきな祈りを受け止めてきた、まさに長谷寺の命といえます。

本堂から道を西へ下っていくと、明治9年(1876年)に雷火で焼失した三重塔に代わって、昭和29年に建立されたまだ朱塗りが鮮やかな五重塔をはじめ、諸堂が浮かぶように立ち並び、見事な景観となっています。

《参詣ガイド》
高台にある近鉄長谷寺駅から急な階段を下り、国道165号を横断して、初瀬川を渡ってから、道の突き当りを右折して参道に入れば、長谷名物の草餅を売る店や旅館がにぎやかに立ち並んでいます。

この門前町の通りを行けば、自ずと仁王門にたどり着き、さらに長谷山の中腹に位置する本堂へは、さらに両脇に名高いボタンが咲き誇る登廊のゆるやかない石段を上っていきます。

日本で最大の塑像を祀り最初の厄除け霊場「第七番札所 東光山 龍蓋寺」

●宗派:真言宗豊山派
●御本尊:如意輪眼観世音菩薩
●開基:義淵僧正
●創建:天智天皇2年(663年)

《概要》
正式名の龍蓋寺より地名からつけられた通称の岡寺で知られるこの古刹は、日本における法相宗の祖ともいわれる義淵(ぎえん)僧正が草壁皇子の亡き後、皇子の住まいであった岡宮をもらい受け、寺に改めたのが始まりとされています。

義淵僧正は良弁(りょうべん)、行基(ぎょうぎ)など多くの名僧の師であり、竜門寺、道明寺などの寺も建立し、また宝力にも優れていました。

その義淵の出自や皇子との関係は、「東大要録」に記されており、その内容については以下の通りです。

“大和国高市郡の子宝に恵まれない夫婦が観音に祈願していると、夜中に赤ん坊の泣き声が聞こえたため、外に出てみると柴垣の上に白布にくるまれた赤子がおり、家に連れて帰ると香気が満ちたそうで、その霊異を聞いた天智天皇は、のちに義淵となるこの子を引き取り、孫の草壁皇子と共に岡宮で育てた”そうです。

さらに寺龍蓋寺の名はこの地を荒らし農民を苦しめていた龍を義淵僧正が池に封じ込め、大石で蓋をしたという伝説によります。

尚、寺は岡山の中腹にあり、石鳥居から急坂の参道を500mほど登っていくと境内に出ますが、そこには3000株ものシャクナゲがあり、4月中旬~5月上旬にかけては花を目当てに多くの観光客が訪れます。

桃山時代に建てられた三間一戸、入母屋造本瓦葺きの楼門で朱の鮮やかな仁王門【重要文化財】をくぐって石段を上ると、文化2年(1805年)に再建され、正面には唐破風を取り付けた境内でひときわ大きな建物である本堂が建っています。

本尊の巨大な如意輪観音座像【重要文化財】は像高4.6mにもおよぶ日本最大の塑像(そぞう)で、日本三大仏にも数えられます。

弘法大師がインド・中国・日本の土を集めて造り、それまで本尊とされてきた金銅如意輪観音観世音菩薩半跏思惟像【重要文化財・現在は京都国立博物館に寄託】を胎内に納められて本尊とされたといわれています。

古来より、「やくよけの観音様」として人々の信仰が厚く、鎌倉時代の「水鏡」にも、二月初午の日には必ず岡寺に参詣したと記録されています。

本堂の前には義淵僧正が龍を封じ込めたとされる「龍蓋池」があります。

《参詣ガイド》
古代史の舞台で知られる飛鳥の東方山腹に立っており、車の場合であれば寺近くの民営駐車場を利用すれば山門まで徒歩5分も掛かりませんが、山麓の岡集落にある岡寺前バス停からだと、石鳥居をくぐって急坂の参道を10分ほど登らねばなりませんがもっとも、昔ながらのこのアプローチの方が、西国札所に参る風情があります。

かつて参詣者の宿場町としても賑わった岡集落には古い民家が残り、石畳が敷かれた参道途中には古風な茶屋も営業されています。

さらに坂道をゆくと、緑を背にした仁王門が見え、堂塔は山の斜面に不規則に配置されており、門をくぐり石段を上がると、書院、開山堂、本堂が東西に並んでいます。

眼病に霊験があり壺阪霊験記で知られる「第六番札所 壺阪山 南法華寺」

●宗派:真言宗
●御本尊:十一面千手千眼観世音菩薩
●開基:弁基上人
●創建:大宝3年(703年)

《概要》
壷阪寺は、大宝3年(703年)に元興寺の弁基(べんき)上人が山中で修業中、愛蔵の水晶の壺中に観世音菩薩を感得し、その壺を坂の上の庵に安置し、観音像を刻んで本尊としたことが始まりといわれています。

城和14年(847年)には官寺に準ずる定額寺(じょうがくじ)に列せられ、10世紀末に子嶋寺の真興が入ると、寺は真言の一大道場として大いに繁栄し、全盛期には三十六堂六十四坊を数えた大寺院となり、枕草子にも「寺は壺阪、笠置、法輪」と筆頭に挙げられました。

嘉保3年(1096年)には創建以来初めての大きな火災に見舞われ、主要伽藍を喪失し、南北朝時代には南朝の本拠であった吉野4と奈良盆地を結ぶ道筋にあることが災いし、争乱に巻き込まれました。

さて、壷阪寺ですが標高300mの地にあり、山の緑に囲まれて新旧の諸堂が雛段のように造成されており、仁王門を潜り石段を登ると右手に方3間、本瓦葺きの優雅な三重塔【重要文化財】、さらに左手には禮堂【重要文化財】と八角円の形をした本堂があります。

本尊の十一面千手観世音菩薩は古くより目の観音様として信仰を集め、元正天皇・桓武天皇・一条天皇の眼病も平癒されたといわれています。

さらに明治の初め、盲目の夫・沢市とその妻・お里の霊験話、浄瑠璃「壺阪霊験記」により、寺の名前はより一層広まり、三重塔の東側には、その「壺阪霊験記(つぼさかれいげんき)」の主人公である沢市・お里の像が立ち、横の崖は沢市が身を投げた谷と伝わっています

またこれらのような伝統的な見どころに加え、境内には昭和以降に造立されてきた石造物が異彩を放っており、山の斜面には、昭和58年に造られた、大観音石像は実に総高20m、石材の総重量1200tとなります。

あと、三重塔からトンネルを抜けた先の境内最高所から光明を放っており、下方の奈良盆地を見渡せる場所には大観音石像の下には全長8mの大涅槃(だいねはん)石像も安置されています。

そして三重塔の南には、釈迦の一代記を浮き彫りにした全長50m、高さ5mの石像仏伝図レリーフがあり、塔の下段にはインド・アジャンダ石窟寺院をモデルにした大石堂が立っています。

堂内は中央に仏舎利塔を安置し、壁面は石仏で荘厳されており、平成19年11月には、台座を含め総高15mの大釈迦如来石像が大石堂の北に開眼しました。

これらの石造物は、インド政府から提供された石材を現地の石工がパーツ毎に彫刻した後、日本へ運ばれ、寺で組み立てたものになります。

《参詣ガイド》
壷阪寺は高取山の中腹にあり、近鉄壺阪山駅から奈良交通バスに乗車、国道24号とは壷阪寺口で別れて、山腹を縫うカーブの多い参詣道に入ります。

駅から10分余りの終点で下車し、案内板に従ってバス停近くの坂道を少し上ったのち、階段を下ってゆくと、拝観受付があります。

古色を帯びた堂塔に交じって、昭和に建立されたインド渡来の大観音石像や、平成19年に」開眼した大釈迦如来石像が安置された境内は独特の雰囲気があります。

千の手と千の眼の観音様が人々を魅了する「第五番札所 紫雲山 葛井寺」

●宗派:真言宗御室派
●御本尊:十一面千手千眼観世音菩薩
●開基:行基
●創建:神亀2年(725年)

《概要》
創建の詳しい年代などは不明ですが、寺伝によると7世紀中頃、河内(かわち)地方に古来より勢力を持っていた百済(くだら)王族の子孫・葛井氏が白鳳時代に氏寺として創建したのがはじまりといわれています。

奈良時代になって聖武天皇の勅願によって金堂、講堂、東西両塔の聳える薬師寺式配置の大伽藍が整備されました。

神亀2年(725年)には春日仏師の稽文会(けいもんえ)、稽首勲(けいしゅくん)親子によって十一面千手観音像が造立、そして行基を導師に迎えて盛大な開眼供養が行われ、その席には聖武天皇も臨席し、その夜は葛井広成の屋敷に宿泊されたと伝わっています。

応仁の乱後も続いた畠山氏の内紛に巻き込まれ、明応2年(1493年)には本堂や宝塔を残して焼失し、さらには永正7年には地震に遭い、本堂以外の伽藍を失いましたが、その都度多くの信者による尽力によって再興されました。

豊臣家や徳川家からの庇護も受けており、特に豊臣秀頼が寄進した四脚門(西門)は、桃山様式を良く伝える建造物として、国の重要文化財に指定されています。

このお寺は商店や住宅に囲まれた町中にあり、地元の人たちが気楽に立ち寄る憩いの場といった雰囲気があります。

紫雲山(しうんざん)の扁額が掲げられた南大門をくぐると石畳がのびており、正面に入母屋造りの本堂が建っています。

本尊に祀られている十一面千手千眼観世音菩薩坐像は奈良の唐招提寺(とうしょうだいじ)の千手観音立像と並び称される乾漆像の傑作といわれており、大阪府下で唯一の天平仏での国宝となっています。

合掌する2本の手のほかに、中の手40本、小の手1000本を持ち、その手には眼が描かれ、衆生のいかなる苦難も救ってくださるとの信仰を集めておられ、秘仏ながらも毎月18日に御開扉され、間近で拝観することが可能となっています。

本尊の右に建つ聖観音菩薩立像、左に建つ地蔵菩薩立像は、共に現存する平安時代の貴重な仏像になります。

また本堂右手には松葉を持つと力が付くといわれる楠木正成(くすのきまさしげ)ゆかりの「腰掛けの松」が繁っており、さらに境内には藤棚もあり、開花時は見事な眺めで、藤祭りも開催されています。

《参詣ガイド》
大阪阿部野橋駅から近鉄南大阪線準急で10分余りの藤井寺駅にて下車後、改札を出てすぐ右手に寺の案内板が出ています。

駅を出たら線路沿いに東に向かうと、数分でアーケード商店街の藤井寺一番街があり、ここを抜けると左手に寺の西門となる朱雀の四脚門が見えてきます。

もちろんここからも境内に入ることは出来ますが、いったん通り過ぎて、正門でもある南大門から入るのがおすすめで、この南大門は重層の楼門で、楼上には「紫雲山」の扁額が掛かっています。

車で訪れる場合は、西名阪道 藤井寺ICから堺・大和高田線を西へ向かい、小山交差点で左折すると、大きな駐車場が、南大門近くに整備されています。

西国巡礼難所のひとつで葛城連峰が一望の「第四番札所 槇尾山 施福寺」

●宗派:天台宗
●御本尊:十一面千手千眼観世音菩薩
●開基:行満上人
●創建:欽明天皇時代(539~571年)

《概要》
施福寺は欽明(きんめい)天皇の命を受けて、行満上人が弥勒菩薩を本尊として建立した日本有数の古刹になります。

山号である巻尾山(槇尾山)は、役小角が書写した法華経の巻々を葛城山の峰々に埋めた際、巻尾をこの山に納めたとの伝承から用いられています。

東大寺建立などに尽力したことで知られる奈良時代の高僧・行基も慶雲3年(706)にこの寺で修業しており、現在西国札所の観音として知られる十一面千手観音は、宝亀2年(771)に行基の高弟・法海によって安置されたといわれています。

この像には次のような逸話があります。当時、寺にはみすぼらしいながらも辛い仕事を不平も言わずに行う修行僧がおり、この僧が修行を終えて下山する際に、旅費を無心すると、寺の僧にののしられたうえ、断られてしまいました。

修行僧は「出家としてなんと情けない、恥ずかしいことだろう」と言い残して下山しましたが、これを知った法海がすぐに後を追いましたが間に合わず、すでに僧は海上に出たあとでした。

むなしく立ち尽くした法海ははるか彼方に紫雲に包まれた千手観音を見、そこで初めて修行僧が観音の化身だったことを知った法海は一山の僧とともに懺悔し、この観音を造立したといわれています。

その後、一時は一山八百坊を数えていましたが、織田信長による焼き討ちで焼失し、その後豊臣秀頼によって再興されましたが、弘化2年(1845)の山火事で伽藍を失いました。

尚、本堂は槇尾山の頂上に近い530mの所にあり、西国三十三ヶ所観音霊場の中でも難所とされています。

参道へは八丁から数え始める、急な階段を上り、弘法大師空海が剃髪したと伝わる愛染堂から階段を上り切れば、本堂の構える境内に出ます。

また西国三十三ヶ所巡礼中に山中で道に迷われた花山法王を、馬が道案内した故事にちなみ、本堂の裏側に馬頭観音も安置されています。

山上の寺ながらも境内には茶店もあり、茶店の前辺りには岩湧山や金剛山の眺望も開けています。

《参詣ガイド》
第11番の醍醐寺准胝堂や第32番の観音正寺と並ぶ難所とされている施福寺には、南海高野線の和泉中央駅から南海バス槙尾山口行きで20分、槙尾中学校前でオレンジバスに乗り換え、10分ほどで終点の槙尾山に着きます。

ただ、オレンジバスの運行は平日1日4便、日・祝日でも7便のみのため、時間が合わなければ南海バスで槙尾山口まで行って、槙尾山バス停まで1時間余りを歩くことになります。

槙尾山バス停のすぐ前に槙尾山観光センターが立っており、駐車場も観光センター前にあります。

槙尾山バス停から本堂までは山道を歩きますが、仁王門までは広いなだらかな上り、その先がかなりつらい道のりとなります。

楓のトンネルの中を登って大日堂を過ぎ、曲がりながら続く急坂と石段を登ると、木々の枝が重なる中に愛染堂があります。

さらに急な石段を登りきると、やっと本堂が見えてきますが、標高530mのこの場所まではバス停から40分ほど掛かります。

その本堂前の広場からは、葛城連山を一望することが出来ます。

庭園と20有余の堂塔伽藍が壮観な「第三番札所 風猛山 粉河寺」

●宗派:粉河観音宗(総本山)
●御本尊:千手千眼観世音菩薩
●開基:大伴孔子古
●創建:宝亀元年(770年)

《概要》
創建は宝亀元年(770年)と伝えられており、国宝に指定されている「粉河寺縁起絵巻」によると、寺の起こりは猟師である大伴孔子古(おおとものくじこ)が光明を発する霊地を見つけて、その場所に庵を結んだことに始まるといわれています。

ある日この庵に一夜の宿を乞うた童男行者が、そのお礼として庵に七日七晩籠って、金色の千手観音像を刻んで立ち去っていきました。

その後、長く病気を患っていた河内の国の長者・左太夫の一人娘のもとへ童男行者が訪ねて来て、千手陀羅尼を称えて祈祷すると娘の容態は回復しました。

童男行者は左太夫の申し出たお礼を固辞し、娘からさげさや(お箸箱)と袴だけを受け取って姿を消してしまいました。

翌春、左太夫は童男行者の言い残した「粉河」の語を頼りに、あちこち探した末、米のとぎ汁のような白い川を見つけ、その川を遡り、やっとの思いで草庵を見つけ出しました。

扉を開けてみると、娘が差し出したさげさやと袴を持った千手観音が安置されていたことから童男行者が千手観音の化身であったことを知って、篤く尊崇したと伝えられています。

それ以来、「生身観音」の信仰を生んで、多くの人々に信仰され、平安時代には多いに寺勢を盛んにし、「枕草子」にもその名前が書き留められています。

さらに鎌倉時代には4km四方を超える境内に七堂伽藍、550坊が立ち並び、寺領4万石を有して隆盛を極めましたが、豊臣秀吉による焼き討ちのため全山を焼失してしまい、現在の諸堂は江戸時代に再建されたものになります。

どっしりと構えた粉河寺の大門【重要文化財】をくぐると粉河川の流れに沿うように童男堂などの諸堂が立ち並んでいます。

さらに紀州藩十一代目藩主・治宝候の直筆となる「風猛山」の扁額が揚げられた中門【重要文化財)】を潜ると、桃山時代の枯山水の庭園で石組みとサツキやソテツを配した粉河寺庭園【国指定名勝】に出ます。

その奥に建つ本堂【重要文化財】は西国三十三ヶ所の中でも最大級のもので、本堂の左手にある千手堂【重要文化財】には千手観世音菩薩、そして脇壇には紀州歴代藩主にゆかりのある人々の位牌が祀られています。

《参詣ガイド》
JR阪和線和歌山駅、あるいは南海高野線橋本駅から紀ノ川沿いにのんびりと走るJR和歌山線で最寄りの粉河駅へ。

粉河駅からは広い道がまっすぐ北に延び、粉河寺大門に向かっており、わずかに大門周辺を除き、近年はかつての門前町の面影は薄れています。

その途中、振り返ると駅の後方には紀州富士の名前を持つ標高757mの龍門山が、優美にそびえたっています。

中津川を渡り、大門をくぐって本坊の御池坊で右に曲がり、童男堂、観音出現池、太子堂などを過ぎると、右側の細い流れが寺伝に語られる「粉河」といわれています。

さらに、中門を越えたところで参道は左に折れて、その正面に庭園と壮大な本堂があります。

早咲桜で知られ和歌の浦の絶景を望む「第二番札所 紀三井山 金剛宝寺」

●宗派:救世観音宗(総本山)
●御本尊:十一面観世音菩薩
●開基:為光上人
●創建:宝亀元年(770年)

《概要》
正式名称は金剛宝寺といって、護国院と称するこのお寺の創建については、次のような伝承が伝わっています。

今から1230年前に唐の僧・為光上人が日本各地を行脚している途中の夜半に、名草山(なぐさやま)山頂から発せられている光を見て、その翌日に山に登ると金色の千手観音様と出会いました。

為光上人はこの地が霊場と悟り、十一面観音像を刻んで、草庵に安置したのが寺の始まりといわれているそうです。

また為光上人が大般若教600巻を書写して境内に埋納した際、龍女が現れて、毎年7月9日に献灯を約束し、竜宮に招いた上人に7種の宝物を奉ったとも伝えています。

ちなみに紀三井寺という名前は山内に湧く、三つの霊泉《清浄水(しょうじょうすい)・楊柳水(ようりゅうすい)・吉祥水(きっしょうすい)》があることからその名前で呼ばれているとされていますが、あたりの地名「毛見」にある寺から転じたともいわれています。

紀三井寺の参道の石段を上ると最初に清浄水があり、さらに少し上ったところに楊柳水、さらに裏門から車道を200mほど西に行ったところに吉祥水が湧き出ています。また境内には約1,200本の桜の木が植えられており、これらの桜は早咲きの桜で有名です。

さらに本堂へは、桃山時代の様式を残している楼門【重要文化財】から331段の石段を上りますが、この石段は紀伊国屋文左衛門(きのくにやぶんざえもん)の結婚と豪商になるきっかけとなったことにちなんで、「結縁坂(けちえんざか)」と呼ばれており、この石段を上りきって境内に立つと、片男波(かたおなみ)の海岸や和歌の浦をはじめ、淡路島や四国の遠景が望めます。

そして境内の右手にある新仏殿には、木造の立像としては、日本最大の大千手十一面観音菩薩を安置しています。

また室町時代に建立された多宝堂と安土桃山時代に建立された鐘楼はともに国の重要文化財に指定されています。

あと、千鳥破風(ちどりはふ)の屋根を持つ総ケヤキの入母屋造りの本堂は、宝暦9年(1759年)の再建となり、本尊は本堂裏手にある大光明殿に安置され、50年に一度開扉されています。

《参詣ガイド》
和歌浦湾を西に見る標高229mの名草山の山嶺に伽藍を構え、和歌浦からもその堂塔を望むことが出来ます。

また関西屈指の早咲きの桜で知られ、早春にはこのお寺の名前を聞くことが増え、さらに盛りには全山が見事な桜の海と化して夜桜見物にたくさんの人が訪れます。

尚、最寄りの駅は、JR紀勢本線の紀三井寺駅ですが、南海本線和歌山市駅からの和歌山バスも、所要25分ほどで参道西方の国道42号で停車します。

ちなみに、JRの駅からは少し南に歩き、左に折れてみやげ物店が並ぶ参道に入って、駅から歩くこと10分ほどで参道突き当りにどっしりと聳える楼門に着きます。

さらに本堂のある台地まではここから、231段の直線上の石段を登っていくのですが、途中右手には清浄水と称する小滝が流れ落ちています。

その後数ヶ所の塔頭が立つ石段を登り切って、左に進んでいくと本堂があり、その眼下には片男波の砂州が長く伸びる和歌浦湾を一望することが出来ます。

那智大滝を望む観音巡礼最初の寺「第一番札所 那智山 青岸渡寺」

●宗派:天台宗
●御本尊:如意輪観世音菩薩
●開基:裸形上人
●創建:仁徳天皇時代(313~399年)

《概要》
青岸渡寺は西国三十三ケ所の起点となり、「紀伊山地の霊場と参詣道」としてユネスコの世界遺産に登録されている名刹となります。

熊野本宮大社(くまのほんぐうたいしゃ)や熊野速玉大社(くまのはやたまたいしゃ)と共に熊野三山として数えられている那智山は熊野の自然信仰と観音信仰、さらに補陀落(ほだらく)信仰が結びついて古くから日本有数の霊地として知られてきました。

特に平安朝の中期以降は「蟻熊野詣」といわれるほどに人々の信仰を集め、西国霊場を中興した花山(かざん)法皇もこの地から西国三十三ケ所観音巡礼に出発したことから、青岸渡寺が西国第一番札所となったといわれています。

明治の初めに青岸渡寺と熊野那智大社に分かれるまでは、神仏習合の修験道場として栄えた歴史があり、この廃仏毀釈によって熊野本宮大社と熊野速玉大社の仏堂は廃されましたが、熊野那智大社の仏堂は破壊を免れ、信者によって青岸渡寺として復興されました。

青岸渡寺の歴史ですが、インドから渡来した僧・裸形(らぎょう)上人が那智大滝にて修行をしていた際、滝壺で八寸の観音菩薩を感得し、庵を営んで安置したのが起こりといわれています。

推古天皇の頃に生佛(しょうぶつ)上人が来山し、椿の大木で如意輪観世音を彫り、その胸のあたりに裸形上人が感得した観音菩薩を納めて、本堂である如意輪堂が建立されました。

現在の本堂は、織田信長の南征の兵火で焼かれた後、天正18年(1590年)に豊臣秀吉によって再建されたものです。

堂内には秀吉が寄進した日本一の大鍔口も下がり、本堂の脇には鎌倉時代に造られた宝篋印塔(ほうぎょういんとう)【重要文化財】が建っています。

本堂のすぐ左手には、同じく世界遺産に登録されている熊野那智大社が隣接されており、また本堂の北側から参道を下りれば、昭和47年(1972年)に再建された朱塗りの三重塔と、那智原始林を背に抱いて飛沫をあげる那智大滝の絶景を見渡すことが出来ます。

《参詣ガイド》
JR紀勢本線の紀伊勝浦駅から那智山方面行き熊野交通バスに乗って、途中那智の滝を見ながら終点の神社お寺前駐車場バス停まで約30分となり、そこからは両側に土産物店が並ぶ石段の表参道を登ると、約15分で青岸渡寺に着きます。

また、時間に余裕がある人には熊野古道の雰囲気を今も残している大門坂(だいもんざか)から歩き出すのがおすすめとなります。

「紀伊山地の霊場と参詣道」が世界遺産に登録されて、脚光を浴びているのが大門坂となるのですが、ここには那智山行きのバスの途中にある大門坂バス停で降ります。

杉の大樹に覆われて苔むした石段を登って、さらに茶店や土産物屋が並ぶ約500段の石段を登りつめて山門をくぐると、眺望の開けた境内に至ることが出来ます。

これが古来の熊野詣の道で、西国霊場巡りの参道となり、世界遺産になってからは。これまで終点で乗降していたバスの乗客も上りか下りのどちらかを歩く人が多くなりました。

ちなみに足の不自由な方やお年を召した方は有料の専用道路を経由すると青岸渡寺の駐車場まで行くことが出来ます。